|
ここは鶴岡でも創業80年と最も古い釣具店のひとつである。店は本通りから少し奥まった場所にあるが、昔からの馴染みの顧客によって支えられている釣具屋である。昔庄内竿の職人であった父に竿の作り方をみっちりと教えられたが、現在作ってはいない。しかし、釣竿に関しては一つの見識を持っている元竿師の方が現在のご主人である。今でも作ろうと思えばいつでも作れるのだが、注文が無いから作っていないとの事。最近次々と竿師の方が亡くなったり、又作るのを止めた竿師の方が多いのを良い事に、法外な価格をつけて売っている竿師がいるのは・・・・とニヤリと笑う。そう云えばあるインターネットに出ているHPに、中通し竿に改造された竿の参考価格が25万以上70万としてある。いくら古くとも、またその昔名竿と呼ばれた竿であっても、中通し竿になった竿には、そんな価格はつくはずがない。第一その竿は庄内竿ではなく、中通し竿と呼ばれるものであって、決して庄内竿とは云えない代物である。そして中通しに改造された竿は実用には良いが、20〜30年と竿としての寿命は短いとされている。庄内竿を知らぬ人達には、そんな滅茶苦茶な価格を表示して欲しくはない。陶山運平、上林義勝等の名竿が100万と云うのなら分かるが・・・・。
鶴岡ではその昔たまたま売りに出た名竿の価格は、米何俵分という評価をしていた時代があったと聞かされた。そう云う表現があったと云う事は、その日鶴岡に来て初めて聴いた言葉であった。俸禄を受けていた武士たちと異なり多くの町民の竿師達は心ならずも良い竿を作るだけでは飯が食えなかったから、2年物を3年と称し、普及価格の竿を大量生産して来た。釣が大衆化してきて需要が高まると竿師達は、毎年一人で数百から千本以上を取って来て竿を作った者もいたとも云われている。良く云えば普及品、悪く言えば粗製濫造の時代があったという事になる。
各時代に所謂名竿師と云われている人たちがいるが、その人達だけでなく「良い竹に恵まれればどんな竿師でも傷をつけなければ名竿が作る事が出来る」とは、先代の言い草であったと云う。先代から「竿作り職人は職人の分限を守り、それで生活が出来ればそれで良し」と常々云われいたそうだ。そんな心がけの良い職人だけではなく、一人で数百から千本もの大量生産していたのでは名竿など出来る訳が無い。ただ、今の時代と異なり名人の肩書きだけでは飯が食えない時代であったのだろうと思う。そう云えば明治の名竿師と云われ、評判の高かった上林義勝にしてもあまり良い生活をしていなかったようだ。そんな訳で以前は釣具屋等と云うものは、あっても無くとも良い趣味の延長上にあるので道楽商売と云われていた。その為に釣具屋ではなく、釣道具屋と云われて他の商売より一段ランク下に評価されていた。
ここのH釣具屋さんは、その釣道具屋と云う名前の響きが好きで何度か「○○釣道具屋」と変えようと思ったのだが、今更古めかしい名前に変えてもと思い止まったのだそうだ。昔から竿を作っていたので町内では竿屋と云われ、それが今でもその名前で通用しているとニンマリと笑う。この店のご主人は如何にも職人さんと云う感じの方である。その昔庄内でカーボン竿を販売したのも、うちが一番最初だったと誇らしげに云う。昭和49年新潟で開催されたオリンピック社の釣具展示会で、展示されていた一本5万円の二間半の並継のヘラ竿が一目で気に入り、展示されていたその竿を会場から強引に持って来た。店に帰って少し固目のグラスロッドのチューブラの穂先を合わせ自分で中通し竿に改造して使って見た。自分で使って見てこれなら十分に使えると、客に宣伝し多数売った事でオリンピック社の本社で表彰された事があったと自慢げに語る。その当時の田舎での金五万円也の価格は、即金では中々買える代物ではない。ある程度お金が自由になる自営業の釣好きの方ならいざ知らず、ただのサラリーマンでは10回分割でやっと買えた頃の話である。オリンピック社の並継のその竿は振り出し竿より丈夫で粘りがあり調子は胴調子の竿であった。今でも鶴岡の釣り人は並継の胴調子の竿を好む。釣って見て魚と遊べる竿が好みで、昨今の固めの7:3調子のただ釣れれば良いと云う竿とは異なる。ただ、中通しに改造された並継の竿は、使う分には良いのだが、道糸が邪魔になり竿の中に仕舞う事が出来ず場所を取るのが唯一の欠点である。そんな欠点を引いても、釣り味か良いと鶴岡の釣り人達は並継の中通し竿にこだわる人が多い。
|
|